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ずっと変わらない幸せを手にしたい人に捧ぐヨーガの哲学
「いま貴方に欠けているものは何ですか?」
あの人のように可愛くない。マイホームを持っていない。仕事が上手く捌けない。
周囲の人との関係構築が苦手。
夢もなく、生きている意味が見出せない。
など挙げだしたらキリがないという人もいるのではないですか?
いま自分に不足しているものを手にいれられたらどんなに幸せだろうと思いますよね。
私たち人間は常に自分に足りないものを手にしたいと願ってます。
その結果、「手に入れる→維持する→手放す」のサイクルを永遠に繰り返しているのです。
そして人は気付きます。あれ?もしかして私一生満たされないんじゃない?
ヨーガの教えでは、この無限ループから抜け出せた時、私たちはようやく本当の幸せに辿り着けるのだと言い伝えられています。
私たちは4つの幸せを求めている
ヴェーダと呼ばれるインドで最も権威ある経典があります。
このヴェーダには人間が人生の目的とする幸せをプルシャアルタ(人間が望むもの)と呼び、4つのカテゴリーに分類しています。
プルシャアルタ
1アルタ・安心
人は安心を手にした時に幸福感を得ます。働いてお金を稼ぐのは、ご飯を食べたり、住む家を得る事で生命を維持するための安心を得たいからです。
私たちが保険に加入したり貯金をしたりするのは未来の安心を得るためです。
私たちが結婚をしたり子供を産んだりするのは家族がいることで将来が楽しいものになるだろうという安心感を得るためです。
反対にお金がなかったり、孤独だったりしたとき、どことなく不安が拭いきれないことは容易に想像できますよね。つまり人はアルタ(安心)を手にした時、幸せな気持ちになるのです。
2カーマ・喜び
五感を通して得られる喜びをカーマといいます。例えば美味しい食事。
暑い日にプールに入ると気持ちよくていい気分になったり、ステキな歌声を聴いて心が満たされたり。
女性なら、イケメンは目の保養ですし、メイクやネイルなど生命維持には全く必要のないものであっても、身にまとうことで幸せを感じるものがありますよね。
五感を通じて感じた喜びは私たちに幸せをもたらしていると言えます。
3ダルマ・法
ダルマとは自然の摂理のことです。アルタやカーマを手にするためにダルマを破ることはしてはいけません。
誰かを傷つけたり蹴落としあったりして幸せを手に入れようとしてはいけません。な
ぜならその行為は自ずと自らを不幸にするものだからです。
反対に、自分の利益を顧みず人を助けたり、植物を育てたりすることは徳(プンニャ)を積んだことになります。
プンニャは未来のアルタやカーマの種であり、ダンマの教えに従い徳を積むと巡りめぐって貴方の元に幸せが返ってくるとされています。
4モークシャ・自由
自由と一言で言っても色んな形がありますが、モークシャとは、好き放題やることではありません。
モークシャの指す自由とは上に挙げたダンマ、アルタ、カーマによってもたらされる幸せを追い求め続ける自己の欲望から自由になることです。
なぜダンマ、アルタ、カーマという幸せを求めてはいけないのか?その疑問について解説していきたいと思います。
幸せを外の世界に求めている間は本当の幸せに気付けない
子供がいるから、パートナーがいるから幸せ。美味しいケーキを食べられて幸せ。毎年旅行に行けて幸せ。
「〜があるから幸せ」と感じることはよくありますよね。
ヨーガの教えの中では、これらを「限界のある幸せ」と位置付けています。
例えば「旅行に行けるから幸せ」という人は旅行行けなければ幸せを失うことになります。
「家族がいるから幸せ」という人もいつか必ず死別するのです。
幸せの源を自分ではない何かに依存しているとき、それは永遠の幸せとは呼べないのです。
本当の幸せはどこにあるのか
ヨーガが定める永遠に揺らぐことのない幸せは、貴方自身の中に見出すものです。
この記事の冒頭で、自分自身に欠けているものは何かと問いました。きっと欠点をいくつも挙げたでしょう。
ですが、ヨーガの聖典は貴方のことをこう表します。
「貴方はありのままで完全であり、満たされた素晴らしい存在である」と。
何もしなくても、自分自身が素晴らしい存在であることに気付くことが幸せへの第一歩です。
そしてこの世界と貴方が調和を保って生きていることに気付くこと。
今、充たされていることに気付くこと。そうすることで、私たちは永遠の幸せモークシャを感じられるのです。
もちろん、モークシャを得ることは簡単なことではありません。そのために私たちはヨガをするのです。
今ある真実を曇りなき目で見つめられる力を育むのが、ヨーガの道なのです。